金原亭 世之介(よのすけ)




「かいぶつ句集」
世之介のもう一つの顔がこの句集にあります!
その名も『皀角子』さいかち(くわがた)です。

定価:\600
隔月10日発行
発行:かいぶつ句会

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第二十九号 2006年6月10日発行

表紙撮影:阿部知代(フジテレビアナウンサー)

世之介の俳句エッセイ


ベースボールを野球と呼んだ人
いやいやWBCは興奮しました。
ニューヨークタイムス紙は「日本のヤキュウがベースボールを下す。」と「野球」の言葉を一面に書いていました。さてこの「野球」の名付け親は一体誰なのでしょうか。
俳句好きの方はすかさず「正岡子規」と答えるでしょうが、おしいかな間違いです。正解は神田一ツ橋の東京大学予備門、第一高等中学校予科ベースボール部、子規の後輩「中馬庚(ちゅうま・かなえ)」です。中馬は在籍中に表題「一高校球部史」をはじめ、日本最初の野球指導書「野球」を明治30年に書いていて、その表題の「野球」が認められ、昭和45年(1970)に「野球」命名者として登録番号39で野球殿堂入りしているのです。
しかし、俳句ファンは、納得されない方も多いでしょう。その通り。それをさかのぼること10年ほど前、明治20年頃には正岡子規は雅号を「野球(のぼーる)」とつけていたんです。
しかしこれは幼名の升(のぼる)をもじって野球狂の子規がつけた雅号で、他にも「能球」の・ぼーる「野暮流」のぼるなど沢山使っていたので認められませんでした。
たまたま同じ文字をあてていたが、やきゅうとはしていなかったからです。
しかしながら子規のベースボールにたいする情熱は俳句をみれば野球好きのあなたを唸らせます。

球うける極秘は風の柳かな   子規

俳句としても心地よいリズムのなかに野球の奥義が有りますでしょう。特に子規は一孝高時代、当時あまり投げることの出来なかった魔球、カーブを投げる岩岡保作とバッテリーを組、キャッチャーとしてそれを受けていたのですから。

草茂みベースボールの道白し   子規

春風やまりをなげたき草の原    同

さて当時は「野球を何と呼んでいたのでしょうか。明治初期は、「球遊ビ」これはいただけません。その後、「西洋戸外遊技法」の中では、「打球鬼ごっこ」すごい呼び名ですが、定着しないでよかったですね。
もし今でも使われていたら、「やりました。イチロー。アメリカ野球鬼ごっこの記録を塗り替えました。」てな事になってるところでした。正岡子規はボールを弄(もてあそ)ぶ、「弄球」ろうきゅうと用語を考えていたようですが、明治29年になっても「今だかつて訳語あらず」と新聞「日本」にも書いていましたからそうは呼んでいなかったようです。仕方なくベースボールのボールを取って「ベース」と呼んでいたようです。
そういえば子どもの頃三角野球と呼ばずに三角ベースと呼んでいたなぁ。
しかしながら正岡子規は現在使われている野球用語をかなり作り出しているのです。
ピッチャーは投者、ホームベースは本基などから、打者、走者、死球、飛球。
えらいですねぇ。
そこで遅ればせながら平成14年没後100年を記念して子規は野球殿堂入りを果たしたのです。
登録番号144番ポジションはキャッチャー。

蒲公英(たんぽぽ)やボールコロゲテ通リケリ   子規

子規を語るに俳句同人「ほとゝぎす」は切っても切れない関係にありますが、高浜虚子との出合いもはじめは野球でした。
明治23年の夏、当時中学生だった本名高浜清少年が故郷松山でベースボールに興じていると、いかにも東京帰りの書生さんがやって来て、「君バットとボールをかしたまえ。」とバッティングを始めたのだ。
そして「失敬」と去っていった。それが子規その人だったのだ。その前年、明治22年夏、友人竹村鍛に頼まれ彼の弟、秉五郎(へいごろう)のために東京からバットとボールを持ち帰りベースボールを教えたのである。
この弟こそ後の自由俳句の先駆者、河東壁梧桐(かわひがしへきごどう)だった。
どちらも俳句を介する前に野球によって結ばれていたのである。

うちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ   子規

いやはや多くの文豪に野球を広めたようです。

空高く消え行く球やつばくらめ   金原亭世之介(皀角子)




「かいぶつ句集」8月号

「駒平」


朝顔の花しぼむ写真一葉かな

師匠は大分以前から自分の亡くなる日を知っていた様に思う。其れというのも自分の書「金原亭馬生集成二巻」の末尾に「やっと間に合った。」とまだ48歳の若さで書いているのだ。
そして昭和58年9月13日54歳の若さでこの世を去る。
自宅でおこなわれた葬儀には二千人を越える参列者が谷中の商店街から日暮里駅近くまで続いた。届いた生花が道を埋め尽くし蝉の声と読経がその細い道を風に乗って流れて行く。
馬生の死を空も悲しんだか前日の雨が道を濡らし葬儀の日は心地よい風が足元を抜けていた。

呼ばれても振り向かずゆく蝉時雨

蝉の声読経聞こえる谷中かな

僕が十代目金原亭馬生に弟子入りしたときに師匠は四十代半ばだったが髪はすでに真っ白で、着流しでく姿はまるで七十代の様に見えた。おかみさんが髪を黒く染めるように薦めると「いいんだよ。それより弟子をみんな白く染めちまおう。」とよく冗談を言っていたのを覚えている。落語協会の理事会で師匠が「これからは、三平さん達若い人に頑張って貰って。」と言ったところ三平師匠が「師匠、師匠あたしの方が年上。」とおでこに手をあてた話しは今でも笑い話の一つだ。昭和3年の1月10日生まれと言うことになっているが、ぞろっぺの親であった古今亭志ん生が大分遅れて出生届を出したらしく本当の年は定かでない。志ん生のおかみさんが「清(馬生の本名)の生まれたときは本当に暑くてね。」と語っていたところから思うと1月生れもあやしいものだ。だから師匠は誕生日の話題は大嫌いで。「昔は正月に一つずつ世の中みんな一緒に歳をとったんだ。」とよく話していた。紀伊国屋落語会の質問コーナーで「林家彦六師匠と馬生師匠はどちらが年上ですか。」の質問にはさすがに客席にも笑いはこぼれたが、真剣な目で見つめるお客様も少なくなかった。

京掠り高座涼しき青菜かな

古今亭志ん生の放蕩暮らしは落語ファンの憧れであるが、「親父がそんなめちゃくちゃだった子供は悲惨だ。」と酒が回ると当時のことを時々話してくれた。
「いいか、親父が毎日遊んで暮らして一銭も金を家に入れない。それどころかお袋が内職で稼いだ金まで持って行く。仕方無いから子供の頃から仕事をしなきゃいけない、工場で働いたりして、ろくに学校も行けなかったんだ。世間では志ん生は噺家らしい。やっぱり噺家はそうでなきゃなんて言うが、家族の身にもなって見ろ。こんな悲惨な事はないよ。それなのに戦争が始まって働くところもない、仕方なく一番なりたくなかった噺家になったんだ。ただ志ん生のようにだけは成りたくないって思ったなぁ。」遠くを見ながら話す師匠の酒はいつもより早いピッチで口に運ばれていった。

志ん生の蛞蝓(なめくじ)つまみあふり酒

酔っぱらった志ん生が高座で寝てしまった事があった。その頃粋な客達は「志ん生ぐっすり寝ろよ。」と声をかけたと言う有名な話しがあるが、その話しが出るたび師匠は怪訝に成る。
『あの時、親父の何本か前にあたしが高座に上がって下りてきたら、その日のトリの親父がへべれけで楽屋に入ってきた。親父の番になって高座に上がったけれど喋ることが出来ない。それどころか高座で寝ちゃた。さあ客が怒り始めた。それぞれに「俺は志ん生を見に来たのに何だ。」
「金返せ。」そこで仕方無く高座から志ん生を降ろして、あたしが代わりに高座に上がったんだ。ところが「おめぇの噺なんか聞きに来たんじゃねぇ。引っ込め。」「金返せ。」と収まりがつかない。お客様に謝って帰る方はお帰りいただいてお楽しみ戴ける方だけお残り下さい。と言ったら半分以上のお客は怒りながら帰っちまった。そして閑散とした寄席で一席喋ったけど、これはうけない。本当につらかった。誰一人として「志ん生ゆっくり休めよ。」なんて言わなかった。ところが翌日新聞のコラムに「志ん生、寄席の高座で寝てしまう。 ゆっくり休めよ。」と載ったのがきっかけでああいう逸話が残ったんだ。本当は誰一人優しい言葉なんぞなかった。もしあったとすれば最後まで残ってあたしの噺を聞いてくれた客様の拍手だけだね。』
その時に師匠はいつか親父の代わりを務められるほどの腕を持って高座に上がってやると言う気概を持ったに違いない。

馬生忌や笑わぬ客の艶浴衣(あでゆかた)

踊りの名手であった師匠の高座は柔らかな所作で流れて行く。物まねをされるとどちらかというとカマっぽく演じられる事があるほど色っぽい高座である。又酒ばかり飲んであまり食事らしい食事をとらない師匠は痩せていた為、風の強い日に風に煽られてヨロヨロと歩道から車道に流されてしまう。「師匠、少しは召し上がった方がよろしんじゃないですか。」心配する弟子達に「何、米のつゆ飲んでるんだから大丈夫だ。」と言う師匠から流れてくる風は奈良付けの香りがした。
そんな師匠であるが口癖は「講道館の黒豹」であった。「若い頃は講道館の黒豹と呼ばれ、泳げば河童の美濃部、バイクにまたがればインディアンで第三京浜を飛ばしたもんだ。」と豪語する。
理事会で小さん師匠ともめたときがあった。「小さんさんは剣道の達人と言うが本気を出したらこっちは鬼頭流の免許皆伝なんだ。この柔術は身を守るためのものじゃない、人を殺すためのものだから、いくら小さんさんが振り回したってどうってことはないんだ。あっと言う間に小さんさんを殺しちまう。だからあたしは喧嘩をしないんだ。」と言う師匠の拳は人差し指がのび、優しく踊りの形をして手を返えした。

蝉の声老尼は石のごとくなり    十代目金原亭馬生(可和津)
障子張るひぐらしの声遠くあり         同
天の川地球は小さきものと知る        同

親父の古今亭志ん生が大嫌いと言っていた師匠であるが高座に向かう師匠は我々弟子達からすると志ん生のそれに似ていた。
亡くなった三遊亭圓生が志ん生に対してこんな事を言っていた。
「私の芸は道場の芸で志ん生の芸は実戦の芸でげす。」馬生の芸もまさにそれだった。稽古を重ね磨き上げたままをお客様の前で演じるのではなく。本番の高座の上でためらいもなく稽古してきた芸を捨ててアドリブでやってしまうのだ。だから同じ演題の噺の録音が沢山残っているが総て演出が違うのである。しかしずぼらなところもある。噺に出てくる人の名前も適当にしてしまうため同じ人物が名前が違って出てきたりするのである。「子別れ」の熊さんの子供の名前が変わったのにはさすがに驚いた。始めは金坊だった子供が、亀、になって又金坊に変わったのだ。それがNHKで放映された。師匠の家には落語ファンから電話が何本も掛かってくる。「あれは、どうして何でしょうか。」師匠少しも騒がず「昔は子供のことを総称して金ちゃん。と呼んでいたし昔は名前はよく変えたものなんですよ。」頑固であった。間違えは認めないのだ。ところが後日師匠のファンだった芥川賞の選考委員でもあった宍戸芳夫さんから手紙が届き「師匠がああおっしゃているのだから、私はまんざら嘘でないような気がします。是非機会があったらその点をお調べ下さい。」と書いてあった。言葉は自信を持って言いきれば事実になって行くものなんだと師匠の偉大さをつくずく感じた一瞬だった。この手の噺には事欠かない。うる覚えのまま上がった高座は「金明竹」言い立ての部分がメロメロの上喋る順番が前後してしまった。お客様から質問が来た「何で師匠は言い立てが毎回違うのでしょうか。」師匠は答えた。「名人圓橋は総て順番を変えて演出していた。だいたい人は話をするとき同じ様に言えるものではないんです。だからこちらの方が正しい演出なのです。」圓橋の速記本は存在しないためそれが事実かどうかも確かめる事は出来ないが、お客様は納得して帰って行った。やはり馬生は紛れもなく志ん生の子供だった。

向日葵の大首折れて日暮れかな

親子酒終えて谷中の曼珠沙華

昭和57年頃喉の調子が悪く医者に診て貰うと食道癌と告知される。手術をすれば治るが声は出なくなると言われ「声のでない馬生は生きていても仕方がないから、手術は止めましょう。」と言った「人はみんないつか死ぬんです。早いか遅いかそれはそれぞれ。」
そして亡くなる2週間前まで高座を務めてこの世を去った。最後の高座は「親子酒」だった大好きな菊正宗の一升瓶に向かって「駒平お前は本当にしょうがないねぇ。」と言って目をつぶった。駒平は僕の当時の名前である。
しかし馬生は1年前に死期を悟ったのではなく、ずっと以前に亡くなる日を知っていたとしか思えない。だから癌の告知も狼狽することなく聞き「死期はここにあったのか。」と答えを見つけた瞬間だったのだろう。

一枚の写真は想いでのパスポートか
一瞬にあの頃に魂を運んでゆく
見つめるだけで詰まった記憶の渦が繰り返し甦る
一枚の写真の奥に無限に広がる想いでの海があるからか
記憶がかすんでいくように写真もセピアにかすんでゆく
そして悲しみも霞んでいつか喜びの想いでだけがセピアの海に浮かんでいる
やがて写真の主は消えてもその子供達が魂を受け継いでゆくのだろうか
写真が生まれてまだホンの二百年


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