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ベースボールを野球と呼んだ人
いやいやWBCは興奮しました。
ニューヨークタイムス紙は「日本のヤキュウがベースボールを下す。」と「野球」の言葉を一面に書いていました。さてこの「野球」の名付け親は一体誰なのでしょうか。
俳句好きの方はすかさず「正岡子規」と答えるでしょうが、おしいかな間違いです。正解は神田一ツ橋の東京大学予備門、第一高等中学校予科ベースボール部、子規の後輩「中馬庚(ちゅうま・かなえ)」です。中馬は在籍中に表題「一高校球部史」をはじめ、日本最初の野球指導書「野球」を明治30年に書いていて、その表題の「野球」が認められ、昭和45年(1970)に「野球」命名者として登録番号39で野球殿堂入りしているのです。
しかし、俳句ファンは、納得されない方も多いでしょう。その通り。それをさかのぼること10年ほど前、明治20年頃には正岡子規は雅号を「野球(のぼーる)」とつけていたんです。
しかしこれは幼名の升(のぼる)をもじって野球狂の子規がつけた雅号で、他にも「能球」の・ぼーる「野暮流」のぼるなど沢山使っていたので認められませんでした。
たまたま同じ文字をあてていたが、やきゅうとはしていなかったからです。
しかしながら子規のベースボールにたいする情熱は俳句をみれば野球好きのあなたを唸らせます。
球うける極秘は風の柳かな 子規
俳句としても心地よいリズムのなかに野球の奥義が有りますでしょう。特に子規は一孝高時代、当時あまり投げることの出来なかった魔球、カーブを投げる岩岡保作とバッテリーを組、キャッチャーとしてそれを受けていたのですから。
草茂みベースボールの道白し 子規
春風やまりをなげたき草の原 同
さて当時は「野球を何と呼んでいたのでしょうか。明治初期は、「球遊ビ」これはいただけません。その後、「西洋戸外遊技法」の中では、「打球鬼ごっこ」すごい呼び名ですが、定着しないでよかったですね。
もし今でも使われていたら、「やりました。イチロー。アメリカ野球鬼ごっこの記録を塗り替えました。」てな事になってるところでした。正岡子規はボールを弄(もてあそ)ぶ、「弄球」ろうきゅうと用語を考えていたようですが、明治29年になっても「今だかつて訳語あらず」と新聞「日本」にも書いていましたからそうは呼んでいなかったようです。仕方なくベースボールのボールを取って「ベース」と呼んでいたようです。
そういえば子どもの頃三角野球と呼ばずに三角ベースと呼んでいたなぁ。
しかしながら正岡子規は現在使われている野球用語をかなり作り出しているのです。
ピッチャーは投者、ホームベースは本基などから、打者、走者、死球、飛球。
えらいですねぇ。
そこで遅ればせながら平成14年没後100年を記念して子規は野球殿堂入りを果たしたのです。
登録番号144番ポジションはキャッチャー。
蒲公英(たんぽぽ)やボールコロゲテ通リケリ 子規
子規を語るに俳句同人「ほとゝぎす」は切っても切れない関係にありますが、高浜虚子との出合いもはじめは野球でした。
明治23年の夏、当時中学生だった本名高浜清少年が故郷松山でベースボールに興じていると、いかにも東京帰りの書生さんがやって来て、「君バットとボールをかしたまえ。」とバッティングを始めたのだ。
そして「失敬」と去っていった。それが子規その人だったのだ。その前年、明治22年夏、友人竹村鍛に頼まれ彼の弟、秉五郎(へいごろう)のために東京からバットとボールを持ち帰りベースボールを教えたのである。
この弟こそ後の自由俳句の先駆者、河東壁梧桐(かわひがしへきごどう)だった。
どちらも俳句を介する前に野球によって結ばれていたのである。
うちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ 子規
いやはや多くの文豪に野球を広めたようです。
空高く消え行く球やつばくらめ 金原亭世之介(皀角子)
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